vol.6 ブランドを磨き、感動を創造
変化と成長を続ける100年企業
久原本家グループ本社 河邉 哲司氏 × タナベ経営 若松 孝彦

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2016年4月号

 

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久原本家グループ本社 代表取締役社長 河邉 哲司氏(左)、タナベ経営 代表取締役社長 若松 孝彦(右)

 

「茅乃舎(かやのや)」ブランドをはじめ複数のブランド事業を展開し、成長を続ける総合食品メーカー、久原本家グループ。そのルーツは創業120年を超える醤油(しょうゆ)蔵にさかのぼる。風前の灯(ともしび)だった家業を、優れたリーダーシップで変化と成長へと導いたのが4代目の河邉哲司氏だ。時代の荒波を越えて100年の暖簾(のれん)を守った今、さらに200年企業を目指すには何が大切なのか。河邉氏に持続的成長への思いを伺った。

 

 

「挑戦あるのみ」で超えた家業の枠

 

 

若松 久原本家は2016年に創業123年を迎えられます。めんたいこブランド「椒房庵(しょぼうあん)」、化学調味料・保存料無添加を主とした調味料ブランド「茅乃舎」、『キャベツのうまたれ』などの調味料を販売する「くばら」など複数のブランドを展開され、現在は売上高163億円(連結、2015年6月期)、従業員数850名(グループ計、2015年6月30日現在)ですが、河邉社長が入社された当時はどのような会社だったのでしょうか。

 

河邉 大学卒業後に入社したとき、売上高は6300万円、経常利益120万円、従業員数6名でした。実は、私はずっと「継ぎたくない」と言っていました。その理由は、会社の規模ではなく、事業自体が問題だと思っていたことが大きかったです。子どもながらに、醤油を自分たちでつくって瓶詰めし、トラックに載せて1軒ずつ配達するという事業が伸びるとは感じていませんでした。

 

若松 企業は「生業→家業→企業」と成長していきますが、引き継がれた当時は、まさに「家業」の会社だったわけですね。なぜ家業を継ぐ決心をされたのですか。

 

河邉 当時、福岡には150ほどの醤油屋があり、大手以外はほぼ家内工業で、当社の規模でも中位でした。初代が醤油屋を立ち上げ、2代目が財を成しつつも戦争で販路が絶たれ、3代目は戦死、2代目の次男だった父が3代目として急きょ登板し、苦しい時代を乗り切ったのを見て、正直、「醤油屋家業をやめてしまえばいいのに」と思っていました。しかし、アイデアを形にして商いをすることは好きでしたので、結局は承継したのです。

 

若松 先代としては、河邉社長が会社を継いでくれて、うれしかったでしょうね。入社してから社長に就任するまで、経営に関わっていく上での転換期をお聞かせください。

 

河邉 入社当時、福岡・久山町で当社の醤油は6割くらいのシェアを占めていたのではないでしょうか。しかし、せっかく継いだのだから売り上げを上げたいと友人の家を訪ねても、「醤油は昔からの醤油屋さんとのつながりで買っているから替えられない」と断られるばかり。そこで父に修業に行かせてくれと頼んだのですが、「お前が修業から帰ってくる頃には会社がつぶれているから無駄だ」と断られました。

 

若松 当時は「河邉社長の若い発想や力が必要だ」と思われたのでしょうね。

 

河邉 そうかもしれません。ただ挑戦あるのみでした。一般家庭がダメなら次は業務用だと、拡大中だった郊外型レストランに目を付け、新しいうどん店やラーメン店ができそうになったら即座に売り込みに行きました。その頃、当社は薄口醤油を1本368円で販売していましたが、福岡の大手醤油メーカーはもっと安く、他県の大手メーカーはそれよりさらに安い価格で市場に出していました。有名メーカーが安く、無名メーカーが高いわけですから、全く勝ち目はありませんでした。

 

そこで、醤油にこだわらず、醤油ベースのタレをつくったらどうかと考え、OEMでギョーザのタレ事業に挑戦しました。当時、タレは主に専業メーカーがつくっており、醤油メーカーはほとんど動いていませんでした。折しもスーパーマーケットが増え、総菜コーナーが充実してきた時代です。家庭でつくっていたギョーザがスーパーに並ぶようになってタレの需要が増え、ビジネスチャンスが広がっていったのです。OEMによる売り上げはどんどん伸びて、会社も急成長していきました。

 

若松 戦略は現場から生まれたものでなければ、うまくいきません。まさに挑戦し続ける率先垂範の行動力や多くの失敗経験が、今のビジネスセンス、ビジネスモデルへと昇華したのですね。

 

 

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素材の持ち味を生かした「茅乃舎」ブランドの商品

 

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