Vol.17 丸千代山岡家 × タナベ経営

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2017年2月号

 

こだわりの「手作り味」で躍進するラーメンチェーン

人材育成へ注力し、成長のネクストステップを目指す

 

広い駐車場を備えたロードサイドを中心に、赤を基調にしたシンプルな外観の店舗を展開

 

北海道と関東圏を中心に、濃厚スープが特徴的なラーメン店「山岡家」を全国展開する丸千代山岡家。2006年にジャスダック上場10周年を迎えた同社は今、ラーメンにとどまらない幅広い「食」にチャレンジしつつ、さらなる店舗拡大に向けて疾走している。

 

 

業態転換が成功を導き念願の北海道進出を果たす

 

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丸千代山岡家 代表取締役社長
山岡 正氏

1980年に東京都江戸川区で創業し、弁当のFC店を始める。88年に「ラーメン山岡家」を開店、92年に北海道へ進出。2002年に丸千代山岡家に社名変更して以降、北海道と関東を中心に全国へ次々と出店し、一大ラーメンチェーンを構築。

齋藤 丸千代山岡家は昨年、創業以来初の売上高100億円突破(2016年1月期決算)を果たされました。あらためて、今日までの歴史をお聞かせいただけますか?

 

山岡 当社は1980年に、弁当チェーンのフランチャイジーとして出発しました。ラーメン業を始めたのは創業から8年後の1988年で、過渡期には弁当店とラーメン店の両方を経営していた時期もありました。

 

齋藤 ラーメン業界に進出したきっかけは何だったのですか?

 

山岡 弁当業界の競争が激しくなって、赤字が出るようになったことです。当時、たった1人の社員と「他の業態をやろうか」と話しているうち、「ラーメンを嫌いな人はいないし、カレーと並ぶ国民食でもある。しかも、おいしいラーメンはお客さまが遠くからでも食べに来てくれる」という結論になって、やってみようかと。どちらかといえば軽い気持ちで始めました。

 

齋藤 ラーメン好きが高じて独立起業という、よくあるパターンではなかったのですね。

 

山岡 新事業に乗り出す意欲の方が強かったですね。周りには、同じく弁当店を営んでいた仲間でレンタルビデオ業界に進出した方もいました。私は食を扱いたかったのでラーメンでいこうと決めました。

 

齋藤 同じ食分野とはいえ、大胆な業態転換に踏み切られました。

 

山岡 都内をはじめ何軒かラーメン店を出しましたが、最初はどこも採算ギリギリで営業成績が振るいませんでした。そんな中、茨城県牛久市に出した店(現在の牛久店)は、国道沿いの立地の良さと、24時間年中無休の営業スタイルが評判を得て大繁盛したのです。それで他の店を全部閉めて、牛久店一本に絞って再スタートを切りました。

 

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タナベ経営 コンサルティング戦略本部 東京本部長
齋藤 正淑

中堅・中小企業の総合的な経営基盤強化を、収益構造の再構築により達成するタナベ屈指のコンサルタント。経営ビジョン・戦略策定、中期経営計画の策定、財務・資本政策立案、事業承継戦略構築を得意とする。

齋藤 1992年、遠く北海道に出店されました。どのような理由からでしょうか?

 

山岡 若い頃に帯広で仕事をした経験があり、雄大な土地柄にほれ込んでいたのです。「いつかは北海道に住んでみたい」と。牛久の店で3年ほど利益を積み上げ、それを原資に進出を決意しました。何より、牛久店で作り上げたラーメンに行列ができるほど人気が出ていたので、味には絶対的な自信がありました。

 

齋藤 北海道でも、すぐに受け入れられたのですか?

 

山岡 全然ダメでした(苦笑)。札幌・薄野(すすきの)に出した1号店は立地が悪かったせいか、初めから赤字続き。預金が底を突かないうちにと、少し立地の良い札幌市中央区南2条に2号店を出しました。するとしばらくして、この店が地元のマスメディアに取り上げられたのです。理由は「店内禁煙、食券制、水のセルフサービス」が当時珍しかったことや、メニューがしょうゆラーメンとチャーシューメンの2種類しかない点も話題になりました。ラーメンの味そのものが注目されたわけではなかったので少し残念でしたが、それを契機に人気に火が付いたのです。

 

齋藤 その後、10店舗目ぐらいまではスピード出店でした。

 

山岡 3店舗目を視野に入れて人材を募集してみたら、一挙に十数名が集まりました。私は「来る者は拒まず、去る者は追わず」がモットー。何とかこの人たちの面倒を見ないといけないと考えるうちに4店舗、5店舗と増やしてしまい、気付けば北海道に出て4、5年くらいで10店舗になったのです。最初から店舗を増やそうと考えていたわけではありませんでした。

 

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