vol.43 「子どもの可能性をクリエイトする」ライフスタイルカンパニーで世界へ挑む
ファミリア 代表取締役社長 岡崎 忠彦 氏 × タナベ経営 若松 孝彦

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2020年4月号

 

 

 

 

ベビー・子ども服で屈指のブランド力を持つファミリアは、全国に店舗を展開し、売上高は102億7000万円(2019年1月期)。創業者の坂野惇子氏は、連続テレビ小説のヒロインのモデルにもなった。その承継者である代表取締役社長の岡崎忠彦氏は、「子どもの可能性をクリエイトする」をミッションに掲げ、数々のプロジェクトを推進しながら、ライフスタイルを創造する世界的なプラットフォーマーを目指してかじ取りをする。

 

 

4人の女性が創業した革新的なアパレル企業

 

若松 ファミリアは、ベビー・子ども服業界で屈指のブランド力を有する神戸発祥のアパレル企業です。2020年で創業70周年を迎えられます。おめでとうございます。その原点、出発点は、4人の女性による創業なのですね。

 

岡崎 1950年に私の祖母、坂野惇子をはじめとする4人の女性が「子どものためにより良いものを」という情熱に燃えて、神戸市にわずか3坪(約10m2)の店をオープン。親の立場に立って製作した良心的な商品の販売を始めました。ファミリアという社名は、「全国のお母さんに本当に愛されるベビー用品のパイオニアになりたい」という思いを込めた“家族のあたたかさ”を表現しています。

 

それまでは肌着としか見られなかったTシャツの胸と背中の両面に、こぐまのイラストを大胆に描いてアウターとして売り出すなど、常に革新的なものづくりに挑んできました。

 

そして1951年に大阪・阪急うめだ本店、1956年には東京・数寄屋橋阪急に直営店をオープンし、それを皮切りに全国展開を進めました。ちなみに今でも大人気のキャラクター、スヌーピーを日本で初めて商品化したのも祖母たちです。1985年に父の岡崎晴彦が経営のバトンを受け取り、カリスマ経営者として業績を急伸させました。

 

若松 坂野惇子氏は、連続テレビ小説のヒロインのモデルにもなられた方です。お客さまに創業時のファミリア物語を知ってもらう良い機会になりましたね。

 

岡崎 あのドラマのような筋書きなら、業績はずっと右肩上がりで何の問題もない会社でしょう。しかし、いまや創業者もいなければ、カリスマ経営者も不在。さらに、当社が成長した大きな要因である百貨店の集客力が衰え、在庫過多に陥るなどして業績は低迷しました。私が社長に就任した2011年は、経済状況が回復せず、当社の業績も悪化している状態でした。

 

 

デザイナーから社長へ転身
会社と社員への思いが決め手

 

若松 今思うと「ピンチがチャンス」のベンチャースピリッツで後継経営者の道を選ばれたわけですが、どのような経緯で経営者になられたのですか。

 

岡崎 高校生の時に祖母から「お前だけには絶対会社を継がせへん」と明言されました。それでクリエーターになろうと決意して渡米。カリフォルニアの美術大学でデザインを学んだ後、現地のデザイン会社に10年以上勤務しました。

 

2003年にグリーンカード(外国人永住権)を取得する手続きで帰国した際、激務続きの父が体調を壊していることを知り、デザイナーとしてファミリアに入社。当時はデザイン用語でしか話せなかったので、社内では「宇宙人が来た」と言われました。社長のボンボン(息子)でアーティスト気取り、一番嫌われるタイプですよ(笑)。

 

若松 大事なことはスピリッツ。創業の精神や理念の承継です。キャリアだけをお聞きしていると、アパレル、デザイン、クリエーティブなどファミリアの経営を行う上で必要なことを、結果的に全て体験できているようにも思えるので不思議です。ただ、当時の企業風土にはなじめなかったことでしょうね。

 

岡崎 最も違和感を覚えたのは、ダブルのスーツを着た男性の役員が、子ども服のことを語り合っている場面です。子どものライフスタイルもデザインのトレンドも分かっていない社員同士が、相当に場違いな話をしている――。そんな状況から、売れる商品は絶対に生まれません。私は前職でコーポレートデザインやアニュアルレポート、店舗デザインなど経営と直結したデザインに取り組んでいたので、大きな危機感を抱きました。

 

父が急逝するとナンバー2が社長になり、父と同じスタイルの経営を続け、負債を重ねました。2年ほどで金融機関から見切られてギブアップし、私が社長に就いたのです。自分が社長をやるなんて思ってもいませんでした。

 

若松 「運命」「宿命」ですね。私は、後継経営者は成果や実績、仕事だけではなく「会社が好き」「社員が好き」であることも「後継経営者の能力」と言ってきました。お話を聞くと、その視点をお持ちだったと感じます。

 

岡崎 本当は米国に帰りたかった。でも、「この会社が好きだし、社員も好きだから、私がやるしかない」と決断しました。承継後に、金融機関の社員と経営を放棄したナンバー2から非常に辛辣な言葉を浴びせられ、持ち前の反骨心に火が付きました。

 

若松 まさに第二創業のスピリッツだったのかもしれません。

 

 

 

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