酒販業を革新、日本の酒の魅力を発掘し伝える
戦わない経営
酒商山田

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2019年3月号

 

従来の「町の酒屋」にありがちな発想を捨て、徹底した差別化戦略で成長を続ける酒商山田。その根底には、顧客はもちろん、蔵元や従業員の満足度向上につながる経営の実践があった。

 

 

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八丁堀店(広島)の店内(上)と外観(下)。酒商山田では、どの店舗も楽しみながら商品を選べるよう、デザインやレイアウトが工夫されている

 

88年続く老舗酒屋の始まり

 

広島市南部の宇品港は、太平洋戦争の終結まで陸軍船舶司令部が置かれたことから、兵へい站たんを担う軍用港として栄えた。こうした軍港を間近にした立地のもとで、酒商山田の前身である「山田商店」は1931年、酒屋として創業した。当時、現代表取締役 山田淳仁氏の祖父・政市氏の勤めていた造船会社は、世界恐慌のあおりを受けて業績が悪化し、大規模なリストラを行った。人事に携わっていた政市氏は、多くの部下を退職させた罪悪感から自身も退職。酒類販売業免許を取得し、妻・延恵氏と共に夫婦で酒屋を始めたのである。以来、同社は88年にわたってこの地を本拠地として事業を展開している。

 

「創業当初から終戦時までは商船会社や軍に酒と食料品を納めていました。店を切り盛りするのはもっぱら祖母で、きっぷの良さから港湾の労働者に人気で繁盛したそうです。また、祖父も商いの才覚があったことから個人商店を会社組織にして事業を拡大させていきました」と、淳二氏は当時の様子を語る。

 

しかしながら、原爆によって政市氏を亡くし会社が立ちいかなくなったことから、延恵氏は酒屋の小売業だけを継承し、間借りの店舗で山田酒店を開店。苦労の末、店を立て直したという。

 

その後、延恵氏が病気を患ったのに伴い、銀行勤めをしていた康二氏(淳仁氏の父)が家業を継ぎ、店名を「ヤマダ酒店」とした。子どもの頃から親の働く姿を見て育った康二氏は、延恵氏同様に商売へ専念した。また、商売の仕方も工夫を凝らし、酒屋では当時珍しかった中元や歳暮のギフト需要を開拓したほか、コーヒー豆などの新商材を扱った。

 

さらに定期航路や大学の生協との取引を始めて、事業を拡大。延恵氏から継いだ時に年商2000万円だった店を、昭和の末には年商1億5000万円にまで成長させた。

 

 

 

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